2015年 01月 08日
松本喜三郎と同じ時代に生き、喜三郎のライバルと見られていた生き人形師が安本亀八です。 仏師の家系に生まれ、その道を志しますが、明治維新後の廃仏毀釈運動により仏師の仕事はなく、 人形細工師として身を立てます、 亀八は安政年間「1854~1860」大阪に渡って大和や河内などを巡遊しながら神社仏閣の彫刻などを手掛けています。 三重県にもかかわりがあり、名張市に断続的に滞在し、地元の有力者たちの肖像彫刻を残しています。 明治初年から本格的な生き人形興行に乗り出し成功をおさめます。 亀八の生き人形代表作が明治23年制作の相撲人形「野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)」です。 《相撲生き人形-野見宿禰と当麻蹶速》は、明治23年(1890)に初代安本亀八が当初、第三回内国勧業博覧会に出品するために制作しましたが、完成が遅れ、後に浅草寺の境内に展示されていたところ、その出来栄えに感動したアメリカ人収集家フレデリック・スターンが購入し、デトロイト美術研究所に寄贈された、現存作品としては、亀八の最大級にして、最も優れた生き人形作品のひとつです。 平成17年に熊本市現代美術館がデトロイト美術研究所より購入しました。 長男が二代目、三男が三代目亀八を襲名一時期三人で生き人形を制作していた時期もあったようです。 三代目安本亀八は大正の頃世田谷三軒茶屋に工房を構え各国の万国博覧会に出品された風俗人形や菊人形、上流階級の贈呈用人形などを制作します。 またデパートのマネキン人形も多く制作しています。 伊勢丹、白木屋、松屋などから注文を受けます、 なかでも銀座松屋との関係は深く大正14年の開店記念ディスプレイには歌舞伎役者、女優、芸者など100体近い人形を制作、 松屋はその後も陸軍展、結婚風俗展、日本舞踊展、などの催しを相次ぎ開催し、さらに100体近い人形の制作を亀八に依頼します。 生き人形は百貨店と出会うことによって木戸銭をとって見せる、見世物人形からマネキン人形へとその役割を変えていきました。
by pygmaliondoll
| 2015-01-08 14:00
| 人形回想録
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