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球体関節人形 DOLL SPACE PYGMALION

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2014年 11月 11日

松本喜三郎

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              貴族男子像
僕にとって、
現代の人形のルーツを思う時、
江戸時代から明治時代に現れた生き人形の世界はとても重要です。

十年程前になりますが、
熊本市近代美術館で『生き人形と松本喜三郎ー反近代の逆襲』という展覧会が開催されました。
以前から松本喜三郎とその作品、谷汲観音像に強い興味を持っていましたので、熊本まで会いにいってきました。

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          谷汲観音像

松本喜三郎は文政八年 1825年に熊本に生まれ、明治24年1891年67歳で亡くなっています。
明治元年に43歳ということです。
江戸時代の末期まで、日本では仏像を彫る仏師や人形師の時代、彫刻や美術という概念はなく、
等身大の美人や人物の動作や表情の細部にまで再現した『生人形(いきにんぎょう)』というような、写実表現はありませんでした。

生き人形興行は言ってみるならば浮世絵が立体パノラマになった見世物、人形はまるで生きているようで、今にも動き出しそうな人形たちに当時の庶民は熱狂しました。


喜三郎と人形の出会いは町の地蔵祭りでした。7月24日の夕方、町々の地蔵堂には名物の造り物がとりどりに並びます。中でも長六橋以南の迎町と井手ノ口町は造り物の本場でした。ここで圧倒的な人気をとったのが、井手ノ口の喜三郎と迎町の安本亀八でした。亀八は、喜三郎より一歳年下の、生涯を通じて並び称された人形師となります
喜三郎は子どもの頃から手先が器用で十四、五歳で職人町の鞘師に弟子入りします。そこで塗りや錺りを学んだといいます。イロイロな職種の職人として働き腕を磨いたようです。また仕事のかたわら当時の藩主、細川家のお抱え絵師の矢野良敬(やのよしたか) に絵を学んだそうです。
喜三郎の仕事ぶりは鬼気迫る様相で、人形つくりを始めると寝食を忘れて仕事に打ち込んだようです。
喜三郎の人形つくりはモデルの顔のスケッチから始まり、桐材を彫刻して頭部、手、足、の細部まで表現し爪の寸法にまでこだわりました。
その写実主義は徹底したもので、人形つくりにモデルを使い、そのモデルと寸分たがわぬようにするために、頭髪は男女の違いや年齢にもこだわり、同じ年齢の人間の頭髪を使いました、
羽二重に一本一本毛髪を通して裏打ちする『羽二重通し』という手間のかかる方法で植毛し、肌の表現においても当時は胡粉が使われていましたが独特の使い方で、人の肌に近い生きた肌をつくりあげています。
コンプレッサーやスプレーガンのない時代、秘伝の分量で胡粉と膠を調合し、その胡粉液を口に含み噴射して、何度も薄く塗り重ねることで生まれた独特の肌を作り上げたそうです。

喜三郎が20歳頃に造った等身大の明智左馬之助は、桐材で頭部と顔面を刻み、それを二つに割り、ガラスの眼球を内面にはめこみ、再び合わせて素地としたといいます。これに紙を貼って顔料を塗り、頭髪、眉毛、まつ毛を付けて頭部が出来ます。ボディーは、空洞の張り子で、鎧を着せ、陣羽織をはおります。外に見える手の部分は桐材で彫り、顔料で着色します。こうした技法を「掘り抜き細工」といいます。

弘化3年(1846)喜三郎が22歳の頃、近くの薬種商の益城屋の乳母、お秋という美人像を等身大で造ります。実在の人物をモデルにして、本人そっくりに造り上げられたこの人形が、おそらく「生人形(いきにんぎょう)」の始まりだといわれます。代継宮の春祭りでモデル本人と人形が並んで登場したとき、観衆は熱狂しました。
松本喜三郎なる天才人形師の出現でした。



 
 大阪・東京での興行

嘉永5年(1852)大阪で大江新兵衛という人が張り抜き細工の等身大役者似顔人形を興行しました。これが好評で、京都や江戸でも同じような似顔人形が興行されます。このブームを決定的にしたのが、安政元年(1854)2月、肥後熊本出身の松本喜三郎が大阪難波新地で異国人物人形を発表したときのことでした。これが空前の大当たりをとります。その看板に「活人形元祖肥後熊本産松本喜三郎一座」と掲げたことにより、活人形の名前が初めて付けられたといいます。「その容貌活けるが如き」迫真の人形群だったのでしょう。

翌安政2年江戸の浅草奥山で、大阪の異国人物と、象の上に楼閣人物を載せた景、長崎丸山遊女の入浴場面などを加えて興行すると、ものすごい評判になります。興行元の新門辰五郎の知遇を得て、以後はつぎつぎに浅草で新しい出し物を披露していきました。

その後の主な興行は、「浮世見立四八曲」の140体48場面は安政4年(1859)大阪難波にて、万延元年(1860)には江戸浅草で開帳します。「西国三十三ヶ所観音霊験記」は明治4年(1871)から8年まで江戸浅草で5年間の長期興行となりました。明治6年にはウイーン万国博覧会のために造花と骨格見本を出品します。明治8年から浅草では、「東京生人形」「百工競精場」「西郷活偶」「浅草観世音霊験記」を毎年興行します。明治12年から「西国三十三ヶ所観音霊験記」を北陸地方を回って大阪まで巡業しました。同14年大阪で、能の場面を題材にした八場の新作を発表します。翌年熊本で凱旋興行を60日間興行し、18年には熊本本妙寺大遠忌に明十橋際で「本朝孝子伝」を興行しました。

喜三郎のマニアックなまでの情熱は、時代の人間を忠実に映し出すことに注がれました。前人未踏で、独創性に満ちた喜三郎の写実人形は、幕末・明治初期という特殊な時代、近代の黎明期に輝いた大衆文化でした。

喜三郎は明治24年、67歳で亡くなりましたが、その生涯に造り上げた人形は数百体以上に及びます。ところが現在残っている人形は十数点にすぎません。浄国寺の「谷汲観音像」、潮永家の「斉藤実盛像」スミソニアン博物館の「貴族男子」などです、
残された作品から喜三郎は『スーパーリアリズム』の作家であったといえないでしょうか。
今見ることのできる彼の人形表現は、生命力と迫力にあふれる、特異な造形作品だと思います。

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貴族男子像 1878年 スミソニアン自然史博物館文化人類学部蔵

喜三郎は独自の創意工夫によって等身大の人形を数百体作っています。
きっとなんでも自分の手で作らないと気が済まない創作人だったのだと思います。
イメージした人形とその周りの情景を作りだすことにおいて、現代のヒトガタ造形作家と何ら変わらないように思います。
その技量は巧みで、エネルギーはとても大きく、学ぶべきことは多々あります。

創作人形は松本喜三郎から始まったと言えるのではないでしょうか。





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写真・参考文献・「生き人形と松本喜三郎」展図録

by pygmaliondoll | 2014-11-11 16:31 | 人形回想録


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