球体関節人形 DOLL SPACE PYGMALION

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カテゴリ:人形回想録( 7 )


2015年 06月 07日

銀杏返し

人形サイズの鬘です。

人毛を植え付けて結いあげてあります。
一見人間用の鬘に見えますが三分の一サイズ程度です。

以前教室に通っていらっしゃった美容師さんに頂いた鬘です、
繊細でお上手に人形を作られる方でした。

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by pygmaliondoll | 2015-06-07 16:05 | 人形回想録 | Trackback
2015年 01月 08日

 安本亀八

松本喜三郎と同じ時代に生き、喜三郎のライバルと見られていた生き人形師が安本亀八です。
仏師の家系に生まれ、その道を志しますが、明治維新後の廃仏毀釈運動により仏師の仕事はなく、
人形細工師として身を立てます、
亀八は安政年間「1854~1860」大阪に渡って大和や河内などを巡遊しながら神社仏閣の彫刻などを手掛けています。
三重県にもかかわりがあり、名張市に断続的に滞在し、地元の有力者たちの肖像彫刻を残しています。

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明治初年から本格的な生き人形興行に乗り出し成功をおさめます。
亀八の生き人形代表作が明治23年制作の相撲人形「野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)」です。
《相撲生き人形-野見宿禰と当麻蹶速》は、明治23年(1890)に初代安本亀八が当初、第三回内国勧業博覧会に出品するために制作しましたが、完成が遅れ、後に浅草寺の境内に展示されていたところ、その出来栄えに感動したアメリカ人収集家フレデリック・スターンが購入し、デトロイト美術研究所に寄贈された、現存作品としては、亀八の最大級にして、最も優れた生き人形作品のひとつです。 平成17年に熊本市現代美術館がデトロイト美術研究所より購入しました。

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長男が二代目、三男が三代目亀八を襲名一時期三人で生き人形を制作していた時期もあったようです。
三代目安本亀八は大正の頃世田谷三軒茶屋に工房を構え各国の万国博覧会に出品された風俗人形や菊人形、上流階級の贈呈用人形などを制作します。

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またデパートのマネキン人形も多く制作しています。
伊勢丹、白木屋、松屋などから注文を受けます、
なかでも銀座松屋との関係は深く大正14年の開店記念ディスプレイには歌舞伎役者、女優、芸者など100体近い人形を制作、
松屋はその後も陸軍展、結婚風俗展、日本舞踊展、などの催しを相次ぎ開催し、さらに100体近い人形の制作を亀八に依頼します。
生き人形は百貨店と出会うことによって木戸銭をとって見せる、見世物人形からマネキン人形へとその役割を変えていきました。
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by pygmaliondoll | 2015-01-08 14:00 | 人形回想録
2014年 11月 11日

松本喜三郎

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              貴族男子像
僕にとって、
現代の人形のルーツを思う時、
江戸時代から明治時代に現れた生き人形の世界はとても重要です。

十年程前になりますが、
熊本市近代美術館で『生き人形と松本喜三郎ー反近代の逆襲』という展覧会が開催されました。
以前から松本喜三郎とその作品、谷汲観音像に強い興味を持っていましたので、熊本まで会いにいってきました。

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          谷汲観音像

松本喜三郎は文政八年 1825年に熊本に生まれ、明治24年1891年67歳で亡くなっています。
明治元年に43歳ということです。
江戸時代の末期まで、日本では仏像を彫る仏師や人形師の時代、彫刻や美術という概念はなく、
等身大の美人や人物の動作や表情の細部にまで再現した『生人形(いきにんぎょう)』というような、写実表現はありませんでした。

生き人形興行は言ってみるならば浮世絵が立体パノラマになった見世物、人形はまるで生きているようで、今にも動き出しそうな人形たちに当時の庶民は熱狂しました。


喜三郎と人形の出会いは町の地蔵祭りでした。7月24日の夕方、町々の地蔵堂には名物の造り物がとりどりに並びます。中でも長六橋以南の迎町と井手ノ口町は造り物の本場でした。ここで圧倒的な人気をとったのが、井手ノ口の喜三郎と迎町の安本亀八でした。亀八は、喜三郎より一歳年下の、生涯を通じて並び称された人形師となります
喜三郎は子どもの頃から手先が器用で十四、五歳で職人町の鞘師に弟子入りします。そこで塗りや錺りを学んだといいます。イロイロな職種の職人として働き腕を磨いたようです。また仕事のかたわら当時の藩主、細川家のお抱え絵師の矢野良敬(やのよしたか) に絵を学んだそうです。
喜三郎の仕事ぶりは鬼気迫る様相で、人形つくりを始めると寝食を忘れて仕事に打ち込んだようです。
喜三郎の人形つくりはモデルの顔のスケッチから始まり、桐材を彫刻して頭部、手、足、の細部まで表現し爪の寸法にまでこだわりました。
その写実主義は徹底したもので、人形つくりにモデルを使い、そのモデルと寸分たがわぬようにするために、頭髪は男女の違いや年齢にもこだわり、同じ年齢の人間の頭髪を使いました、
羽二重に一本一本毛髪を通して裏打ちする『羽二重通し』という手間のかかる方法で植毛し、肌の表現においても当時は胡粉が使われていましたが独特の使い方で、人の肌に近い生きた肌をつくりあげています。
コンプレッサーやスプレーガンのない時代、秘伝の分量で胡粉と膠を調合し、その胡粉液を口に含み噴射して、何度も薄く塗り重ねることで生まれた独特の肌を作り上げたそうです。

喜三郎が20歳頃に造った等身大の明智左馬之助は、桐材で頭部と顔面を刻み、それを二つに割り、ガラスの眼球を内面にはめこみ、再び合わせて素地としたといいます。これに紙を貼って顔料を塗り、頭髪、眉毛、まつ毛を付けて頭部が出来ます。ボディーは、空洞の張り子で、鎧を着せ、陣羽織をはおります。外に見える手の部分は桐材で彫り、顔料で着色します。こうした技法を「掘り抜き細工」といいます。

弘化3年(1846)喜三郎が22歳の頃、近くの薬種商の益城屋の乳母、お秋という美人像を等身大で造ります。実在の人物をモデルにして、本人そっくりに造り上げられたこの人形が、おそらく「生人形(いきにんぎょう)」の始まりだといわれます。代継宮の春祭りでモデル本人と人形が並んで登場したとき、観衆は熱狂しました。
松本喜三郎なる天才人形師の出現でした。



 
 大阪・東京での興行

嘉永5年(1852)大阪で大江新兵衛という人が張り抜き細工の等身大役者似顔人形を興行しました。これが好評で、京都や江戸でも同じような似顔人形が興行されます。このブームを決定的にしたのが、安政元年(1854)2月、肥後熊本出身の松本喜三郎が大阪難波新地で異国人物人形を発表したときのことでした。これが空前の大当たりをとります。その看板に「活人形元祖肥後熊本産松本喜三郎一座」と掲げたことにより、活人形の名前が初めて付けられたといいます。「その容貌活けるが如き」迫真の人形群だったのでしょう。

翌安政2年江戸の浅草奥山で、大阪の異国人物と、象の上に楼閣人物を載せた景、長崎丸山遊女の入浴場面などを加えて興行すると、ものすごい評判になります。興行元の新門辰五郎の知遇を得て、以後はつぎつぎに浅草で新しい出し物を披露していきました。

その後の主な興行は、「浮世見立四八曲」の140体48場面は安政4年(1859)大阪難波にて、万延元年(1860)には江戸浅草で開帳します。「西国三十三ヶ所観音霊験記」は明治4年(1871)から8年まで江戸浅草で5年間の長期興行となりました。明治6年にはウイーン万国博覧会のために造花と骨格見本を出品します。明治8年から浅草では、「東京生人形」「百工競精場」「西郷活偶」「浅草観世音霊験記」を毎年興行します。明治12年から「西国三十三ヶ所観音霊験記」を北陸地方を回って大阪まで巡業しました。同14年大阪で、能の場面を題材にした八場の新作を発表します。翌年熊本で凱旋興行を60日間興行し、18年には熊本本妙寺大遠忌に明十橋際で「本朝孝子伝」を興行しました。

喜三郎のマニアックなまでの情熱は、時代の人間を忠実に映し出すことに注がれました。前人未踏で、独創性に満ちた喜三郎の写実人形は、幕末・明治初期という特殊な時代、近代の黎明期に輝いた大衆文化でした。

喜三郎は明治24年、67歳で亡くなりましたが、その生涯に造り上げた人形は数百体以上に及びます。ところが現在残っている人形は十数点にすぎません。浄国寺の「谷汲観音像」、潮永家の「斉藤実盛像」スミソニアン博物館の「貴族男子」などです、
残された作品から喜三郎は『スーパーリアリズム』の作家であったといえないでしょうか。
今見ることのできる彼の人形表現は、生命力と迫力にあふれる、特異な造形作品だと思います。

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貴族男子像 1878年 スミソニアン自然史博物館文化人類学部蔵

喜三郎は独自の創意工夫によって等身大の人形を数百体作っています。
きっとなんでも自分の手で作らないと気が済まない創作人だったのだと思います。
イメージした人形とその周りの情景を作りだすことにおいて、現代のヒトガタ造形作家と何ら変わらないように思います。
その技量は巧みで、エネルギーはとても大きく、学ぶべきことは多々あります。

創作人形は松本喜三郎から始まったと言えるのではないでしょうか。





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写真・参考文献・「生き人形と松本喜三郎」展図録
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by pygmaliondoll | 2014-11-11 16:31 | 人形回想録
2011年 03月 17日

祈り

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橋本平八 《或日の少女》 昭和9年(1934)

僕が若い頃に刺激を受けた橋本平八の作品、
木彫彩色の彫刻ですが人形にも見えます。

今、この時期、心に蘇えった作品です。




「ベルメールと日本の球体関節人形」展は終了いたしました。
御来場者のみなさまに感謝いたします、ありがとうございました。
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by pygmaliondoll | 2011-03-17 23:02 | 人形回想録
2009年 02月 26日

新八犬伝と辻村ジュサブロー

僕が人形に興味を持ち始めた頃、
NHKテレビで夕方放映されていたのが、「新八犬伝」です。
NHK連続人形劇シリーズの5作目にあたるそうです、
子供の頃リアルタイムで観ていたのが「チロリン村とくるみの木」
「ひょっこりひょうたん島」などでした。なつかし~

「新八犬伝」は滝沢馬琴の 「南総里見八犬伝」をベースに脚色されたもので、
放映されたのが1973年4月2日~1975年3月28日月曜~金曜日18:30~18:45
の間で、かなりの高視聴率で人気番組だったようです。

辻村寿三郎先生の名前を知ったのがこのNHKの人形劇です。
登場する人形達がそれまでの子供向け人形劇の人形達とは真逆でリアルで色気があって、
退廃的な匂いさえ感じさせました、歌舞伎調のメイクや凝った着物、
大人の審美眼にも絶えうる人形だったと思います。
話の展開もさることながら、「ナンジャこの人形達は」って驚きがありました。
玉梓が怨霊のおぞましさと迫力、犬山道節のゆがんだ顔と褌で筋骨たくましい肉体、
辻村寿三郎先生の美意識が遺憾なく発揮されていたのでしょう。

その後、辻村ジュサブロー個展があることを知り当然足を運びました。
そこに展示されていた人形は人形劇の人形とは違った、
より洗練された繊細で迫力のある人形達でした、
一気に辻村ジュサブローの世界に魅了されてしまいました。
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写真は「辻村ジュサブロー人形作品集」文化出版局刊、に掲載された「赤い蝋燭と人魚」。
その他にも作品集など多数の出版物があるのですが、絶版になっているのが残念です。

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辻村寿三郎先生は人形の制作量も凄いですが、演劇、着物のデザイン、パフォーマンス
など人形というジャンルを超えた仕事をされている、現在も活躍中の人形界の巨人です。
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by pygmaliondoll | 2009-02-26 16:56 | 人形回想録
2009年 01月 21日

人形回想録2・マネキン人形とベルナール・フォコン

我が家に10年以上前から住んでいるマイキーちゃん。
麦わら帽子を被り、釣竿を持って階段の踊り場に立っています、
ボーとして階段を上がってくると、人の気配にドキッとします。
等身大の人形って存在感あります。

ヨーロッパの古いマネキン人形。
「ベルナール・フォコン」って写真家、知ってますか?



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by pygmaliondoll | 2009-01-21 01:27 | 人形回想録
2009年 01月 12日

吉田 良の人形回想録 1

ブログを始めて教室の情報だけでもつまらないかな?、との思いから、
私が人形を始めてからの思い出に残る出来事などを、時々掲載しようと思います。
「やめときゃよかった」とすぐにでも後悔しそうですが・・・
まずは「ドール・スペース・ピグマリオン」に関して。

ピグマリオンを開設したのは1883年の末、たしか12月だったような?
私が人形を作り始めたのが1973年頃ですから人形を始めて10年後のことです。
ピグマリオンを始めて、すでに丸25年が経過してしまいました。

いきなり何の下地もなく始めたわけではありません、
その10年間の間に、代官山の「仏蘭西館」、目白の「竹取物語」といった人形の
お店が開設していた人形教室で講師をしていました。

人形を作り始めて10年、そろそろ本気で一生の仕事として人形作りに取り組む
時期では、・・・そのための「自分のアトリエを構えよう!」
できればそこへ人形を作る人たちが集まって交流したり、仲間で発表活動をする
場にもなれば・・・
そうなんです、ピグマリオンは最初は私のアトリエ、として始まったのです。

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ところが事情があって「竹取物語」の教室から身を引く事になって、
つまりは、そちらへ来ていた生徒さんたちを引き受ける事になってしまいました。
半分アトリエ、半分教室って感じのスタートになったわけです。

教室として始めるにあたってどうすべきか。
人形の技法は多様です。
一つの技法だけを教える教室では視点が狭くなるのではないか、
ある程度違った技法を幾つか習った上で、自分に合った製作スタイルを発見できるのが
良いのでは、との思いから、最初は基礎課程のカリキュラムがありました。
簡易的な関節人形、布張り人形、ポーズ人形、張子技法,型抜き技法、他・・・
当時は辻村寿三郎先生、与勇輝先生、に代表される布張りの人形が主流でもありました。
私自身20代の頃は両先生の影響を受けた作品を作っていました。
この頃、ポーズ人形を作っていた事が人形を全身でとらえるといった意味でとても勉強になりました。
人の形を作る、たとえば頭。
輪郭があって、目、鼻、口、耳、があれば頭にはなります。
子どもが作ったように稚拙な形でも頭にはなります。
自分がそこに描くイメージどおりの形になっているのか、
ただなんとなく出来上がった形でも最初は満足ですが、幾つか作り上げるうちに
「違うんだよな~」となったりします。

私は専門的な美術の教育を受けたわけではありませんので、
デッサンなんぞ描いた事がなかったのです。
「やはり人形を作る上で人の形を理解する事は必要だろう」
当時の住まいの近くにあったクロッキー教室に通い、
裸婦デッサン、クロッキーをしばらく勉強しました。

話がそれましたが、
そのデッサンの先生、佐藤重明氏(画家)にもピグマリオンで講師をしていただいた時期があります。
ピグマリオンにデッサン・クロッキーのクラスがあったのです。
仲間の造形作家、吉川ゴエモン氏には裸婦を前にして粘土で造形する立体クロッキー?
クラスを指導していただきました。

人形製作の多様な技法や基礎が学べる教室を目指したのですね。
そのために個性ある作家に講師をお願いしてきました。
現在のピグマリオン講師は水澄美恵子、本城光太郎、佐藤美穂、陽月、そして吉田良。

創設期には菊池恵美子(故人)、渡邊素子、吉川ゴエモン、佐藤重明、その後、浅見恵子、
天野可淡(故人)、と言った作家のみなさんの協力を得る事ができました。

ありがたいことです。
人形を習いに来る人たちにも恵まれました。
すべての人が才能に恵まれるわけではありませんし、
長い間人形制作に携われるわけでもないでしょう。
短い期間でも好きな人形と向き合い、人形を創作する行為、
人形に限らず、イメージを形にする楽しさはその人の人生を豊かにすると信じます。

現在でも当初の気持ちは基本的に変わっていません。
現在、主流は球体関節人形ですが、ビスクドール、布張り人形、ポーズ人形、オブジェドール
など、多様な人形達がピグマリオンの空間を通して生まれています。

今、ピグマリオンで勉強している、貴方!アナタが次世代を担う人形を生み出すかも!
そうなってくれるのがピグマリオンへ託した私の夢。
期待してますよ。みなさんに・・・


Doll Space PYGMALION
 YOSHIDA Ryo
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by pygmaliondoll | 2009-01-12 19:08 | 人形回想録 | Trackback